えきたび ~ローカル線を訪ねる鉄道旅~

ローカル線を旅して降りてきた駅についてを書いた紀行ブログです。基本的に写真は添えず、短めな文で綴っていきます。

人吉駅 (肥薩線・熊本県)

 肥薩線は三つの顔を持つローカル線である。八代~人吉は日本三大急流のひとつ球磨川に沿って走る「渓谷のローカル線」。人吉~吉松は標高の高い場所を往く「高原のローカル線」。吉松~隼人は古い木造駅舎も多く、のどかな景色が広がる「農村のローカル線」。いずれも、とても魅力的な顔である。
 初めて肥薩線に乗ったときは吉松から人吉を経由して、球磨川の流れに沿うように下流の八代を目指した。人吉では乗換で降りる機会はあったが、ゆっくりと町を眺める事が出来なかったので、二回目の訪問では人吉に泊まることにした。

 八代を出た気動車は、球磨川と合流すると川に合わせて蛇行を始める。位置的には中流の筈だが、その眺めは既に渓谷美に溢れたものになっている。川の両側は高く斜面がそびえ、午後の太陽の下は既に日陰である。
 まっすぐ人吉に向かうのではなく、球磨川沿いの小駅に降りてみたく思っていた私は、駅名に惹かれて球泉洞駅で降りた。駅舎は山小屋のようなログハウス調で、小ぶりながらも観光客を意識した造りである。もっとも、列車から降りた乗客はほとんど居ない。集落もあまり無い。水量が多く川幅が広い渓谷に、線路と道路が肩を寄せ合い斜面にへばりついている地である。
 もう一駅ほど降りてみたくなった私は、上り列車で一駅戻り、お隣の白石(しろいし)駅で降りた。
 白石駅は向い合せにホームがある行き違い可能駅で、駅舎はとても古い木造駅舎であった。田舎の分校のような佇まいが、日陰の渓谷に重厚な存在感を醸し出している。明治時代、肥薩線が開業した頃からの駅舎だそうである。
 夏の夕刻、付近に集落はあるが、物音のしない静かな駅だ。待合室の木製ベンチに座っているだけで心が落ち着く。壁も、戸も、使われていない窓口も、すべて黒ずんだ板である。蒸気機関車が停まったら似合う駅舎だなと思えるが、実は肥薩線を走るSL人吉号の停車駅になっている。JRの人も、さすがわかっている。

 人吉駅に着いた。駅前は夕日に染まっている。駅から近い人吉城などの町観光は明日の朝にする事にして、まずはホテルに向かった。駅前通りは少しくたびれた感じが滲み出ている。想像していたより小さい町に思えたが、そういう町は大抵、飲食店にハズレがなく良いものだ。
 夜になり、町中にある人吉温泉の共同浴場に行く。造りは町の銭湯という飾り気のないもので好感。浴槽の一部が岩風呂になっていて、球磨川の渓谷をジオラマ風に再現している部分は、観光地の温泉らしさをアピールしている。
 風呂上りに通りを歩いていると、良さげな店があった。店内は小ざっぱりとした造りで、カウンター席に腰を下ろす。ご主人が「お客さん、東京からですか?」と聞いてきた。神奈川県からですと答えると、「一年に一回、東京から来る常連さんに似ていたもので」という。人吉の鮎の味に魅せられて、毎年この店に食べに来るのだそうである。私も当然、鮎を注文して球磨焼酎で味わった。
 人吉は鮎が名物である。人吉駅では「鮎寿司」という駅弁も売っている。明日は鮎寿司を駅で買ってみようと思いながら、目の前の鮎の美味に唸った。

若桜駅 (若桜鉄道 - 鳥取県)

 鳥取と津山を結ぶ因美線(いんびせん)は、他の中国山地を縦断する路線と比べると深い山間を走る風景ではなく、山と山の間の平地に狭く広がる農村地帯を走る路線である。年式の古い木造駅舎を持つ駅が続き途中下車欲が高まるが、私はその気持ちを抑えながら郡家(こおげ)駅とやってきた。

 岡山県側は山の麓の農村風景だったが、鳥取県に入ると少しずつ平野になっていった。郡家はその境目のような位置にある。
 駅の周りを歩いていると、突然激しい雨に見舞われた。慌てて軒下に避難したが結構濡れる。雨足が弱まったところで急いで駅に戻り、ベンチで一休み。これから乗るのは若桜鉄道という元国鉄若桜線の生まれ変わりである第三セクター鉄道だ。ちなみに、若桜は「わかさ」と読む。
 ホームには気動車が二両連結で停まっている。白を基調に水色と赤のラインの入った小ぶりな気動車は、「さくら3号」と「さくら1号」と正面に書かれてある。若桜鉄道気動車にはWT3000という形式が付いていて、この車両はWT3003とWT3001という番号が振ってある。つまり、この形式の三号機と一号機ということだ。地名にもなっているくらいなので、沿線は桜の名所があるのかもしれない。
 さくら3号と1号のコンビは因美線で通ってきた風景を巻き戻すかのように、農村地帯へ入っていく。さくら号は窓が開く気動車なので、夏の夕方の山の風で、雨に濡れた髪を乾かした。
 現れる駅はどれも古めかしい。国鉄型時代の面影を残す木造駅舎が渋い。駅舎の壁も柱も、年季の入ったこげ茶色になっている。

 終点の若桜駅も築五十年は越えてそうな趣の木造駅舎だった。清掃が行き届いた構内は、この鉄道が地元の人たちに愛されている事を強く感じさせるものだ。駅舎内では若桜鉄道グッズも売られている。硬券入場券とクリアファイルを購入した。
 駅前を歩いてみると、すぐに国道に出た。国道といっても、クルマが二台どうにかすれ違えるくらいの細い道で、その道の両脇に木造の軒を連ねた商店や格子戸の建物が並んでいる。この道は、かつての美作と因幡を結んでいた街道の名残りである。
 昔の街道の面影を今に残す国道から裏道に入ると、寺院が現れた。こういう町の中に溶けこむように建つお寺の境内に居ると、自然と心が落ち着く。
 お寺を出て裏道に戻って歩き始めると、すれ違った子供が挨拶をしてきた。この子だけなく、他の子たちも同様に挨拶をしてくる。夕日に染まり始めた町、裏道の家並みが穏やかな暖色に変化していく。駅前に戻ると、歩道に掲示されていたスローガンに「挨拶を大切にする町」とあった。

菊水山駅 (神戸電鉄有馬線 - 兵庫県)

 神戸市の中心部三宮からほど近い新開地駅に降りた。神戸高速鉄道の駅である新開地駅は地下鉄みたいな地下駅である。東の方向からは阪急神戸線阪神本線。西の方向からは山陽電鉄線がやってくる。神戸高速鉄道は、かつてばらばらに位置していた各私鉄の神戸のターミナル駅を繋げるために設立された会社であり、路線を所有しているだけの鉄道で、車両は保有していない。つまり各私鉄の電車が線路を走っている。
 この新開地では北の方向に向かって別線が伸びている。神戸電鉄の電車が乗り入れてくる線である。私は乗換通路を通って神戸電鉄の電車が待つホームに向かった。
 白い車体に窓枠のところが赤い通勤型電車は新開地を出ると、神戸電鉄の戸籍上の起点である湊川駅を過ぎ、やがて地上に出た。線路はぐいぐいと上り勾配で六甲山地に入っていく。後方に見える神戸の街並みと海がどんどん遠ざかっていく。

 登山電車の様相を見せ始めた電車は、山の切通しのような所をレール音を軋ませながら走っていく。いつしか無人の山地風景になり、ゆっくりと電車は狭いホームの無人駅に停車した。
 「菊水山」と書かれた駅名標。二人並んで歩くのがやっとな幅のホーム。線路は複線なのでホームは二つあるが、斜面に横付けされた下り(有馬温泉方面)電車のホームからは構内踏切を渡って出入口のある上り(新開地方面)ホームに出る。
 駅舎はなく、駅を出ると下方向に階段が伸びているだけで、駅前広場のようなものはない。つまり駅が斜面の中腹にあるのだ。階段のまわりは木が生い茂っているだけで建物はなく、下の方から川のせせらぎが聞こえてきた。
 とりあえず階段を下りてみたが、特に何かあるわけでもなく、駅に戻ってきた。菊水山駅は停まる電車より通過する電車の方が多い。山を越えた向こうは鈴蘭台などの神戸のニュータウンが広がっているので電車の本数はそれなりにあり、時折レールを軋ませる音とモーター音の唸りと共に電車が通過していく。しかし、電車が通り過ぎていくと、聞こえてくるのは川のせせらぎだけ。私はのんびりと鈴蘭台方面の電車を待った。

岩泉駅 (岩泉線 - 岩手県)

 山田線の茂市(もいち)駅に着いた。北上山地のほぼ無人地帯の車窓を見てきたあとだけに、駅のまわりに少し集落があるだけでも開けて見える。
 狭い跨線橋を渡り、駅舎のあるホームに出ると白に赤いラインの入った気動車が一両で停まっていた。キハ52という国鉄時代の車両で、山田線の車両より古い。これから乗る岩泉線JR東日本でもっとも乗客の少ない路線である。そんな予備知識で車内に入ってみると、予想より乗客は多かった。20人近くいるだろうか。もっとも、その人たちのほとんどが手にカメラを抱えている。
 夕方の太陽は、高くそびえる山に隠れ、岩泉線の車窓は既に暗闇への入口にさしかかっているような空の色であった。山田線より更に深い谷に入っていった線路は、谷の中腹にゆったりと延びている。駅に着いても周辺の集落の軒は少ない。やがて森の中に吸い込まれていった気動車は、押角という屋根のない小さなホームがあるだけの駅に停まった。辺りは木が鬱蒼と生え、人の気配はない。気動車のエンジン音がやけに響く。

 終点の岩泉駅は一段高い所に線路があり、改札の近くにだけ屋根が架かっている簡素な駅であった。駅舎のようなものはないが、駅前ロータリーが駅の規模に釣り合わないほど広い。ただし停まっているバスもタクシーも居ない。到着客を迎えに来ている自家用車も居ない。
 車内に居た人のほとんどはホーム上で写真を撮っていたが、私は日の暮れてきた岩泉駅前を歩き出した。駅を出てすぐ小川を渡る。周辺は山に囲まれているが、道の方向だけ平地が広がっている。歩いているうちに、すっかり夜になってしまったが、その道の方だけ明るい。私の前には、列車に乗っていたのだろうと思われるおじいさんとお孫さんが手を繋いで歩いている。
 岩泉線にも存在した日常の風景に導かれるように、私は二人の後ろを歩きながら岩泉の町に向かう。やがて街灯に包まれる道になり、建物が道の両脇に並び始めた。

 駅に戻ってきたが、折り返しの発車時間まで少しあるので駅をもう少し眺めてみた。11月の夜の風が冷気を乗せて吹いてくる。ホームの下、つまりロータリーの前に待合室がある事に気づいた。仲は結構広く、20人くらいは余裕で待機出来そうである。この待合室は鉄道のものではなく、路線バスの待合室であるようで、室内に掲げられている案内板は路線バスのものだった。
 ベンチの並ぶスペースの真ん中にストーブが置かれ、バスを待つおばあさんが一人座っていた。私も列車の発車時間まで、物音のしないこの場所で過ごした。

(2014年4月 廃止)

珠洲駅 (のと鉄道 - 石川県)

 能登半島は広い。広いと言うよりは長いと言った方が良いだろうか。
 早朝に、寝台特急北陸のB寝台のコンパートメントから金沢駅のホームに降り立ち、午前中に輪島に着いて朝市を見て回り、サザエの壺焼きを食べてから、まだそんなに時間が経っていないような気がする。しかし、真夏の太陽は少しずつ夕方の優しい色に変わり始めた。私はようやく蛸島(たこじま)にやってきた。蛸島は「のと鉄道」の終着駅であり、能登半島の北端にもほど近い集落である。
 蛸島に来るまでに車窓でさんざん海岸を眺めてきたが、やはり海が見に行きたくなり、小さなコンクリート駅舎の無人駅から伸びる細い道を歩く。駅のホームは畑に囲まれた牧歌的な駅だったが、駅から海までの道は漁村風景を往く。古めかしく高さのある家が並ぶ蛸島の細道は、かつての繁栄を偲ばせた。

 折り返しの列車に乗った私は珠洲(すず)で降りた。この辺りでは唯一の市制を敷いている町だから、なんとか泊まる所はあるだろう。そんな理由で降りた駅で、無事に旅館の予約を済ませる。
 思いつきで出かけた能登半島の旅の一日が暮れ始めてきた。珠洲でも海岸に向かってみる。代々続いていそうな立派な造りの民家が目立つが、海岸近くにはスーパーが立っていて、よくある地方の町の風景になりかけている。太陽はあっという間に地平線に消えた。
 旅館は珠洲駅からは離れていた。周辺に飲食店らしき建物は見当たらない。女将さんの推薦で近くの飲み屋に行く。
 店内はスナックといった雰囲気で、初老のママが一人で切り盛りしていた。旅館に紹介されて来たと説明し、神奈川県から来たと言うと、ママは「遠路はるばる珠洲へようこそ」と歓迎してくれた。とにかく魚介類が食べたいとリクエストした私の前には、次々と魚や貝が並んでいく。
 私以外にお客さんがいないので、カウンターでママと話に花が咲く。話題の多くは珠洲の話である。夏祭りの日は町が大いに盛り上がること。町ではトライアスロンに力を入れていて大会も開かれ、その日も大いに盛り上がること。ママは楽しそうに語ってくれた。日本のどこに行っても、わが町を愛する人の地元話を聞くのは楽しい。地元愛は慈悲に満ちている。そこに理屈や損得の言葉はいらない。
 ママが作ってくれた珠洲の魚介料理を食べきれなかった私は、タッパーに詰めてもらえないだろうかとお願いした。ママは笑顔で、返却は女将さんにお願いすれば大丈夫だと言ってくれた。

 ひと風呂浴びて部屋に帰り、タッパーを開けた。改めて美味しさに胸が熱くなる。ママは、夏祭りの時の盛り上がりをぜひ見てほしいから、また珠洲に来なさいと言ってくれた。私は心で頷きながら魚介をつまんだ。

(2005年4月 廃止)

鰺ヶ沢駅 (五能線 - 青森県)

 一番景色の良いローカル線はどこですか?と聞かれたら答えに窮するが、もっと具体的な質問だと答えを探しやすい。たとえば、寂しい眺めのローカル線は?とか、或いは海の陰影をじっくり味わえるローカル線は?と問われれば、五能線と答えたい。五能線青森県の川部と秋田県東能代を結ぶ百キロ以上の全長を誇るローカル線である。
 初めて五能線に乗った時は「ノスタルジックビュートレイン」という展望デッキ付きの観光列車に乗った。ディーゼル機関車が牽引する客車列車で、それなりに楽しかったが、やはりローカル線は地元の人たちと同じ空間で味わいたい。二回目は普通列車に乗った。いずれも雪の残る3月の話である。

 川部から乗った初回とは逆に東能代から乗った私は、岩館、深浦と途中下車をしてきた。正しく言えば、それぞれの駅までしか行かない列車だったのだ。五能線は距離が長いので全線を通して走る列車は少なく、本数そのものも少ない。
 駅から下った林の小道の先に小さな港があった岩館で粉雪が降ってきたが、青森県に入ると雪は止んできた。左窓には紺色の日本海が白波を浜に打ちつけている。沿線は人家は少なく、駅間距離は少し長い。駅が近づいてくると、強い風に身を寄せ合うように、こじんまりとした集落が現れる。乗る人も降りる人も少ない。

 北前船の港町深浦で泊まろうと思っていたが、結局宿を絞りきれず、もう少し乗っていたいと五能線の旅を続けた。
 深浦を出た列車は僅かな乗客を乗せて日本海沿いを走る。太陽はあっという間に紺色の海に吸い込まれ、いつしか私の乗っている車両には、私と斜め向かいのボックスに、こちらに向いて座っている女子高生だけになった。
 暗闇の中を列車は走る。左窓には海が広がっている筈だが、黒い幕が張られたように風景が動かない。やがて微かな街灯と家の灯が現れると駅である。現れるどの駅も、まわりの集落も、灯が少ない。女子高生は憂い気な表情で、ぼんやりと窓外を見つめている。彼女にとっては日常の風景なのである。

 ひたすら暗闇と時折現れる小さな集落を眺めながら、一時間ほどで鰺ヶ沢(あじがさわ)に着いた。雪が降りしきり、駅前は雪が高く積もっている。誰もいない少し古びたローカル駅で電話をかけて宿をとる。場所を尋ねたら「駅にいるなら、そこから見えますよ」と女将さんに言われ、薄暗く小さな駅前の片隅に一夜の居場所を見つける。
 女将さんの赤い傘を借りて、勧められた近くの居酒屋に行くと、店内は津軽弁が飛び交っていた。店主は私には標準語を使ってくれたが、回りのやりとりはほとんど聞き取れないまま、異郷の雪の夜の一人酒を楽しんだ。
 寒さに背中を丸めて宿に戻ると、女将さんが手前の部屋で確定申告の書類を書いていた。「今の季節は泊まるお客さんはほとんどいないよ。でも、たまにお客さんみたく、雪が見たいからと来る人がいますよ」と笑顔で言われる。
 部屋に戻ると、テーブルに差し入れのリンゴが置かれてあった。津軽はリンゴの名産地であり、五能線鰺ヶ沢~川部の沿線はリンゴ畑が広がっている。

琴電屋島駅 (高松琴平電鉄志度線 - 香川県)

 四国の香川県高松琴平電鉄(ことでん)という私鉄電車が走っている。地方私鉄でありながら、琴平線長尾線志度線と三路線も営業して頑張っている。その中でも志度線は途中に瀬戸内海を見ることの出来る区間があり、郊外型電車な風景の多いことでんの中で最もローカル線の気分が味わえる路線である。

 ある夏の日、私はJR高徳線志度駅を降りて琴電志度駅に向かった。地図で見ると、志度線高徳線は近い所を並行して走っていて、志度駅から琴電志度駅もほど近い。住宅地に埋もれるように突然現れた琴電志度駅から、リベットがたくさん打ち付けられた古びた電車に乗った。窓は大きく、窓の外側に転落防止の鉄棒が横向きに取り付けられている。これは元京浜急行の230形電車だ。色は赤に白帯から、上がクリーム下は赤という塗装に塗り替えられ、正面には貫通扉が増設されているが、この窓の大きいデザインは、まさに京浜急行の電車である。
 走り始めて少し経つと右手に海が見えてきた。線路は海岸線のぎりぎりにあるので、海に向かって向き合うような位置で座っている私からは堤防が見えず、まるで海の上を走っているように見える。戦前生まれの旧型電車は冷房などないので窓はあちこち開け放たれ、私の斜め前に座っている少女の髪を潮風が揺らしていた。

 私は終点まで乗らず、琴電屋島駅で降りた。あたりは静かな住宅地で、ひっそりと静まり返っている。源平合戦の舞台になった屋島は、平野部に山がせり立っていた。駅を出て山を見ると、緑に包まれた山肌に土の色の細い筋が山頂の方に向かって下から伸びている。
 緩い坂道を歩き、山に近づくにつれ、麓に立つコンクリートの朽ちかけた建物が大きくなってくる。そばまで行くまでもなく、その建物がケーブルカーの廃駅だと気づいた。あの筋の頂まで上がれば、きっと瀬戸内海が一望だったことだろう。
 気を取り直して琴電屋島駅から来た道を引き返す。途中に民家と区別のつきにくい佇まいの小さな食堂があった。玄関が開け放たれた店内で古びたテーブルに座り、注文した讃岐うどんを待つ。静かな空間に、随分と前から使われているであろうと思わせるデザインの扇風機の音が微かに響く。